調和を意志すること

前回は形を作ることでエネルギーが引き出され、調和の取れた美しいものを目指すことで自身のエネルギーのゆがみを矯正するということを書きました。
なぜ芸術が存在するのかと言えば、そこに美と調和を生み出す果てしないエネルギーがあるからです。完璧な調和を作り出したものは時を超えてエネルギーを放ち続けます。
ですから、どの学問にも芸術性は存在します。数学の美しさ、物理の美しさ、文学の美しさ、それらの美をみつけることが学びの楽しさなのです。

一個人が地道に形を追うこと。何かを習い、身につけようというとき、何が一番大切かというと、美しさへのあこがれだと思います。先生なり先輩なり、その道の先にいる人、人に出会えず本かもしれませんし、一つのシンボルみたいなものかもしれませんが、目指す形を体現しているものをみつけることです。そのあこがれが、自分自身へのこだわりをなくし修正しつつ育ててくれます。
調和した形を自分自身のものに取り込むことは、全ての動きに影響を与えます。
その人の歩き方、振る舞い、考え方一つに美しさの基準が出来て美しく調和の取れたものを選択すつようになるのです。
いつかは人の動線を追ってみたいと思っています。無意識に動くその人の一日の軌跡を追ってみると、無駄の無い人はリズムを持って美しいラインを描いているのではないかと思います。

さて、治療です。治療こそ調和の美が必須です。
健康とはまさに調和のとれたその人の美しさを引き出すものであり、治療後はそのオーラが輝いているものです。
治療とは、相手の本来のリズムと調和を引き出すものでなければ美しさは引き出されないでしょう。治療後の調和はその人本来の運気を運んできます。治療することで気が開かれ、人生が変わるものです。
先日は患者さんから嬉しい報告がありました。
ここで治療を受けた後は必ず、仕事の依頼が入る、と。
体の中だけではないのです。自身が変化すると取り巻く周りのエネルギーが変化します。
常に繋がっている感覚。
調和がとれることは本質的な喜びです。
自身を美しいものとして存在させることが、永続的なエネルギー作り出し、周囲をも輝かせるのです。

どんな時も美しくありたいと行動するのが良いのです。
そのあこがれが自身を矯正し、調和をとらせるでしょう。
誰もが、自然と輝き出す何かを持っています。
自分の中のその光のもとを見つけ出すのが、今まで書いて来た様々な方法であるわけです。

体感への憧憬

ヒンメリをご存知でしょうか?
フィンランドの麦わらで作るモビールで、幾何学的な立体造形を糸で繋ぎ合わせて作ります。
これは立体化したフォルメンだと、これ以上ないほどのはまり様で朝に晩にと暇さえあれば麦わらを手にしている日々を過ごしていました。
(今は写真が手元にないのですが、いずれ掲載しますね。)
雑誌に載ったヒンメリを見て初めて知ったのですが反響がもの凄いらしく、ヒンメリ第一人者のおおくぼともこさんのサイトの藁の在庫は品切れだとか。
立体の力を必要としているのは私だけではないのだと知ることで、世の中で立体の力が必要とされていることをきっかけに色々と考えさせられました。
紙の上で書くフォルメンは2次元ですが、感情や思考にアプローチされる感覚があります。しかし空間に作り出す3次元の立法体は体に直接響いて来て、空間の認知の中でより分かりやすいものになるのだとわかります。
オイリュトミーは動くフォルメンと以前も書きましたが、オイリュトミーに限らず、宇宙エネルギーにアプローチするものは数々生み出されてきました。ヨガや太極拳、各種舞踊、武道、人は宇宙エネルギーと密接に繋がることを志向してきたことがこれらの歴史を俯瞰するとわかります。
空間で浮かぶヒンメリは平面(視覚=外界)と体(体感)をつなぐ中間に存在しています。
ヒンメリの力が世に求められているということは、行く行くはもっと体の動きを伴った体感するものを志向する前触れでしょう。
今はテレビやパソコン、ゲームなど平面と脳で営む世界が生活のキャパを大きく占めるようになりました。
しかし、そのお陰で人は体と宇宙をつなぐエネルギーの取り込み方を忘れ、様々な障害が出ています。
体と宇宙への回帰が起きているのです。
女性雑誌には曼荼羅塗り絵の特集があり、書店に行けば大人の塗り絵の本が並んでいます。平面にアプローチすることがブームとなり、ヒンメリが出てきて立体化されてきています。
会社で今まで行われてきたランチミーテイングは、今は一歩進んでウオーキングミーテングなるものがあるそうです。

人が体から離れる程に”形”への渇望があり、様々な方法で空間の認知を取り戻そうとするようです。

では空間を認識することと体の認識はどうつながるのでしょう。
空間に形を作り出すこと、線を追って空間を作り出すことは自らの生命エネルギーが引き出されて行われていることだと思われます。
線を書くこと、空間をつくることは自らのエネルギーの延長線であり、そこに残した軌跡が分身のように認識されるのではないでしょうら?
結果としてエネルギーが外へ引き出され、自分が広がります。ゆがんだエネルギーは正しい線、調和をとれた線を目指すことで矯正されます。
ゆがみを直し、開かれ、外のエネルギーと交流することになるのです。

ケプラーは宇宙は直線と曲線で出来ていると言ったそうです。
人間の表現するあらゆるフォルムの美しさはまさにエネルギーの動きの表現であり、調和に叶ったものだけが、永遠に残りいつまでも力を生み出し続けるのでしょう。
私たちはエネルギーの調和を崩さないで生きているか?というと決してそんなことはありません。でも、こうしてフォルムに触れて鍛錬し、芸術といわれる様々な人間活動によって刺激を受けエネルギーをもらいつつ生きることは出来ます。
私の治療もエネルギーを整え損なうこと無く美しいものでありたいと願うばかりです。

猫療法なるもの

随分ご無沙汰してしまいました。
久しぶりのブログ更新です。
ブログはしばしば書きたいと思って書き始めるのですが、大概下書きのまま保管され、次に開いた時には気分が変わって、というより思考が発展して別の捉え方をしているので別のテーマを持ち出し、と延々と繰り返していると何件かの下書きがたまる一方になってしまいました。
これはホームページの気の滞りだと、ちょっと気をとりなおして今日は優しい(易しいともいう)ことを書きます。

家では良く自分の子供に治療をするのですが、その時にいつも寄ってくるものがいます。
なんでしょうか。
猫です。
我が家の猫はラーメン屋の裏で生まれた子猫を猫ボランテアが引き取って、そこからもらってきた正真正銘の野良猫出身ですが、気位の高さは猫界でもトップクラス(と思われる)。
子供達がちやほやするし、私も悪さをしてもほとんど怒らずに育てたので、お姫様かなにか勘違いしているのでは、、、と思える節があります。
それでも、猫の言う通りに人間が合わせるようにしているので(どうしても出来ない時は懇々と話して聞かせる)、猫との通じ合い率はかなり高まってきているようです。
猫は気を察知して動く生き物ですから、猫との交流は相手の気の読み合い。
猫の治療は手をあてて気を送るだけ。
気が通ってくると体がのびてのびてグニャグニャになって軟体動物のようになりますが、もう充分となると勝手に手を外して寝てしまいます。
猫は普段一人でお留守番をしてくれているので(大部分の時間は昼寝ですが)、気を通すと胸につまりがあり、寂しかったことがしばしば読み取れます。猫は気まぐれな寂しがりやなのです。
気が欲しい時はみずから膝に乗り込んでくるなどは、こどもと一緒ですね。
で、こどもの治療の時の猫ですが、気の集散を感じるのかどこからかたちまちやって来てうろうろしだします。
先日はお腹を冷やしていたいという息子に、猫自らお腹にくっついて腹痛を取り除く快挙がありました。さすがに疲れるのか息子の腹痛をとったあとはぐったりしてしまいました。
患者さんと話したことで思い出しますが、犬も飼い主の悪いところをなめたり、ぴったりくっついて癌を取り除いたりすることがあるそうです。
私も先日めずらしくお腹が痛いことがあり、早速猫療法を試してみたところ短時間で見事に腹痛が取れてしまいました。

猫程に気の出し入れが習性として楽に出来ると治療家としてももう一皮むけるのですがねえ。
動物と違い人間には自我がある為に様々な理性を働かせて行動が複雑になり、交流する気を押しとどめる一つの要因となります。
治療で後頭部を施術するのは自我の調整です。自我が強すぎたり弱すぎたり、自我が上手く実現されていない人はとても多いのです。
しかし、自我があることで私たちは宇宙的進化を志向することが出来るのです。
猫に学びつつ、自我をうまく回していく、魂的生活を大事にしたいものです。
で、猫療法ですが猫にとって人間の邪気は相当きついもののようですので、猫的視点からはあまりおすすめしません。といいつつも、全ては猫の気が向いた時にしか実現しないものなのですがね。

意志について

意志とは何か。

意志とは、やらずにはいられない欲求のような力かと思う。その欲求は自分の魂の高みを志向しており、本来あるべき場所へと自分を連れて行ってくれる動力となるものではないだろうか。

だから、意志に反する時、人は病になる。意志の訴えが強ければ強い程、症状もまた強いのではないだろうか?

だから意志とは方向性。意志が存在することが歩む力となる。思考や感情を常に現実世界の動力となるように移行させる力である。

意志はどのように養われるのだろう。子どものあの意志の強さは一体どこからくるのだろう。子どもは知っているのだ。自分が何を欲しているのかを。。欲求と意志の間に外界の刺激や大人の思考が入り込むように成長してくると少し複雑になる。小さい頃に自分の世界を大人によって蹂躙された人は悲劇である。子どもは習い事や勉強などのこの世に従う為の術を教育の名の下に教えこまれ、自分自身から発する欲求を見失っていないだろうか?

現代程意志の欠落した時代はかつてなかっただろうと思う。

人はどこへ進むべきか見えていない大人が多く、情報は過多になるばかりであるが、その情報が行動に結びつくことは殆どないだろう。
行動は情報に基づいて起こるものではなく、本人の内から湧く欲求によるものであるからだ。
情報を得れば得る程、自分の欲求が見えてこないものである。
情報は知識の一つであろうが、それは以前のブログにも書いた量的価値(批判)であり、感性を伴う質的価値(共鳴)ではない。
行動が起きるのは感性自らが震える時=そう共鳴する時なのだ。

さて、行動の動力となる意志の力はいかにして養うことが可能だろうか?
シュタイナーは意志を鍛えるものとしてオイリュトミーやフォルメンを挙げている。これらはいずれも方向性をもって歩みつつ周囲との調和を=共鳴を作り上げる。
また合気道を引き合いに出すが、合気道では技をかける時には明確な意志が必要とされる。
相手をどの方向に導いていくか自分の中で把握していないと受けを取る相手は混乱しとりづらくなる。
”自分が何をしたいか”が常に問われる。
先生の技には先生の手の先から光のラインが出てくる様な明確な導きがある。
この強力で澄み切ったラインが意志であろう。このラインは磁石のように人を引きつける力を持っている。

これらはラインをイメージすること、本来のライン(おそらく宇宙エネルギーの調和した流れ)に自分を乗せることが共通している。これを思うと、意志とは自分の立ち位置、軸をもとに方向性を明確にしていることが始まりのようだ。

”自分は何をしたいのか”方向性を知るにはどうすればよいのだろう。
まず、静かになることである。
自分の内部に他者をやすやすと取り込まない。他者による評価や、噂に気を取られない。ただ、今は雑音が多くて自分の本質の声を聞きにくくなっているから、そういう人はパソコンや携帯や自己啓発本やらを横に置いてボーっとしなければなるまい。

何もしない時間こそ何かを感じ考えている自分を思い出す。

自分に還ったら、今度は開く番。好きな誰かと会い、交流する。外に出て歩く。歩行は一番基本的な意志の鍛え方である。足を使うことでグラウデイングし、リズムを刻み、脳の深い原始を揺さぶる。歩いて自分の歩いて来たラインを感じることである。何をしても、ラインは存在している。絵を描いても、歌を歌っても、踊っていても、家族と会話しても。自分が流れのある動きの中で生きていることを知る。

意志は常に志向し内なる自分を外へと押し出す。押し出された自分はラインを作りエネルギーの流れを外界の中へ作り出す。こうして全ての存在が世界に宇宙に影響し合う。

 

 

体、呼吸、リズム

久々の更新です。
今日は合気道の先生に言われて気づくことがあった”呼吸”について少し考えてみたいと思います。
もともと私は幼少期から呼吸は浅く風船を膨らませられない程の肺活量しかない冷え冷えガチガチ人間だったのですが、合気道で上半身の柔らかさを鍛え、呼吸力というものがあることを知るようになりました。未だ呼吸については不勉強で、まだあまり分かりません。
それでも少しおぼろげに見えて来た世界を言葉に捉えてみましょう。

合気道に限らず武道では呼吸がとても重視されると思います。剣道の気勢も呼吸力の表現ですが、サイレント武道の合気道の場合は技をかける時に息を吐けと言われます。
吐くことはエネルギーを外に向けて出すことですが、同時に己を消して相手と同一することにつながります。我をなくすのです。
そして技のクライマックスに合わせるように呼吸をすることは、技にリズムをもたらし絶え間ない流れを生み出します。
治療でも、特に気を扱う治療はかならず息を吐けと言われます。エネルギーが放出されると言いますが、息を吐くことで息を吸う、その繰り返しは同様に治療のリズムをもたらします。
呼吸とリズムはきってもきれない関係にあるようで、リズムをとることで呼吸も整い体と呼吸の一致を生み出すことはあらゆる方面に影響をもたらすのではないかと推測されます。

呼吸とは心臓の拍動と同じように無意識に絶え間なく行われているリズム活動です。
浅い深い、速い遅いの違いはあれ、誰もが何らかのリズムをもって呼吸をしています。
そして呼吸はビックリすると息が止まり、緊張すれば早くなるなどの心理的要因を常に受けているものでもあり、食物と同じく外から吸収し排出する見えない消化活動でもあります。
吸収は大気などの外の世界の影響をもろに受けているのですが、それぞれが呼吸というリズムを作ることで無意識に自分の体を防御したりゆるめたりといったコントロールをしているのです。

しかし、いざ呼吸法なるものを実践してみようと思ってみてもそれを効果的に用いることが出来る人は少ないのではないでしょうか?
呼吸法とは普段行っている呼吸の意識化です。
無意識で行っていることを意識してやることは本質の自分という無意識の世界が意外にも遠くにあることを感じます。
呼吸を紐解いてみましょう。
呼吸は横隔膜の緊張や、胸郭の動きに直接働きかける一つの運動でもあります。腰回りや背中の固さ、胸郭の緊張が横隔膜や肺の運動に影響がでますし、首の固さも胸郭の動きに関与しています。
通常の呼吸は肺を使った外呼吸ですが、深くは細胞の一個一個が呼吸する存在です。呼吸が出来ているかどうかという問題を深く捉えた場合、体の隅々にまである細胞一つ一つまで意識を広げて一斉に呼吸する同時性に着目することが大事なことに思えます。
呼吸を意識で統御する場合、硬直した物質である体を自在に操作することと、細胞代謝という無意識のエネルギー活動を感じる”全体性”がポイントになのです。

体全体で吸うこと吐くこと、一体感をもたらす良い呼吸はここにあると思います。
抵抗があってはそれに乗り切れません。
体の抵抗はゆがみや堅さ、心理的な抵抗は不安感だったり迷いだったり。
我々は知らず知らず抵抗しているのです。
わだかまりなく、すっと新しい呼吸に入っていければ何の苦労もありません。
呼吸は誰もが当たり前にできそうで、一番操作しにくいものと言えます。
だから、始まりは自分の呼吸に耳を澄ますこと。
何の意識もなくありのままの呼吸をしている自分をみつけられるでしょうか?
呼吸を見つめることは”今”に返りグランディングの力を及ぼします。
そうして見つけたら次はゆるめること。
吐く時に体を収縮して緩める、すう時に体を張って解放する。
収縮と解除、伸張と解放。
対立する要素のようですが吐ききった時、吸いきった時、苦しいとは違う感覚を養うとそこから広がります。
隅々までそうした感覚が広がると、一体感が生まれてきます。
一体化すると、全体がリズムを持ち始めていることに気づくでしょう。
リズムは様々です。一般的には4回の脈拍に一回の呼吸と言われます。
ごはんを食べる時、お風呂に入る時、人と話す時、それぞれのリズムと呼吸があるでしょう。
それを広げていくと一日のリズム、一年のリズム、トータルにとっているリズムがあると思います。
リズムは方向性を生み出します。
どんなリズムをあなたは刻んでいるでしょうか?
安定したリズムは方向性をもったエネルギーとなり意志となります。
呼吸、リズム、方向性、意志。
意志についてはまた今度お話しましょう。

土曜日診療始めます。

いつかは、いつかは、と言い続けて何年でしょうか、やっと始めます。

念願の土曜日診療。

月2回 午前のみで、設けられたのは3枠ですが、お仕事の都合で今までご来院頂けなかった方も、夜間の枠が一杯で予約がとれなかった方も、小さなお子様がいて預けることが出来なかった方も、皆々様お待ちしております!

とはいっても、あっという間に埋まってしまいそうな枠ですが、、。

運良く東南に向いた朝日のよく入る治療室ですので、ぜひとも陽光に満ちた時間帯の治療を楽しんで頂きたく思います。

今まで待ってくださった皆様ありがとうございます。

 

批判と共鳴

今日は前々からお話しておきたいと思っていた大事な発見について書いてみます。
テーマは批判と共鳴としましたが、批判と言ってしまうのはあまりに直接的で反感を招いてしまいそうで少々躊躇します。
そもそもこれは量的世界と質的世界のお話なのです。
もう一つ言い換えると知的世界と感覚世界。量は知的、質は感覚。
なぜ量の世界は知的世界と同義とされるのでしょう。
知的であるというのは知識をどれだけ持っているかということで推し量られます。
受験勉強はその最たるものであり、学者の世界もより多くの本を読み、より多くのデータを持ち、それにもとづいて新たな学問の世界が築かれるのが現状です。
知的レベルを上げるには量を沢山持っていないと議論にも勝てないし、点数も取れない世界です。
対して感覚の世界はそれが美しいか、心地よいか、どんな感覚を受けるかはそのもの本来が持つ質に由来すします。美しいものはそれが大きいかろうと小さかろうと受ける印象は同じく美しいままです。

さらに発展してみましょう。量には比較が生じます。
どちらが多いか少ないかという評価が生じてくるわけです。
評価とは自と他を区別するものであり、対立関係にあります。
分析、判断、評価、、比較、などの量をベースとした解釈には自他の分断が生じそれが批判という感覚を生じるのです。

対して質的世界はどうでしょうか?
感覚には自らを動かす必要が生じます。
美しい、心地よい、眠い、空腹、いずれも自分が知っている感覚を思い起こして共に感じることができると思います。
自他の別なくして共に感じること、これが共鳴です。
対立にたいしては包容と言う言葉が適切でしょう。

これをもとに考えてみると、どうでしょう。
相手の為を思って言う意見や評価が批判していることにつながります。
わかりやすい例が、話を聞いてもらっている時です。
相手に自分の気持ちをわかって貰いたいだけなのに、こうしたら良いだのああしたらだの言われてカチンときたことはありませんか?
相手が対立的に話を聞くとそのような返しになります。
カチンとくるのは正常な反応なのです。
だってそれは遠回しの批判なのですから。
どうしたら良いかという応えは実際必要とされていないことがほとんどです。
どうしたらいい?と聞かれて一生懸命考えて答えたって、相手はその通りにしてくれることはあまりないでしょう。
実際、一番良い答えはその人本人が決断して行うことにつきます。この際、決断する内容はあまり関係ないのです。その人の主体的な決断が大事なのですから。
その決断を早められるのが共鳴することです。
(これは治療院でも良く聞かれるやりとりなのです。)

今の学校教育は通知表もそうですが、評価されることばかりで子どもは中々大変だと思います。
子どもの言動を微に要り細に入り取り上げて職員会議にかけたって、あまり解決にならないでしょう。
その子どものエネルギーレベルに共鳴して、初めて先生はどうしたら良いか、その子と共に発見できるものがあるのだと思います。
これは以前オイリュトミーの先生から聞いて感動したのですが、シュタイナー学校の先生は誰かある子どもについて考えたい時、その子のことをこと細かにイメージするそうです。
職員会議のようなところでも、その子の頭の先から爪の先まで具体的に生き生きとイメージします。
担任の先生は夜寝る前にもそうしてイメージしてその子と繋がります。
その子が何を言ったとか何をやったとかではないのです。
それがその子どもの力になることをシュタイナー学校の先生は知っているのです。
これはまさに包容です。
教育が常にこんな形で治療的に生きているというのは素晴らしい!

今の世界は物質中心主義で教育も医学も学問も全てが量的価値観の中で作られた世界となっています。
もっともっとという欲求によって世界が発展してきたわけですが、その為に人はお互いにとても批判的に生きるようになっていると思いますが如何でしょう?
今日は長くなったのでこの辺にしておきますが、もう少し考えてみたいお題です。

外とのつながり

新年の治療が始まりました。治療を始めるとホッとします。治療にはいつも新しい発見が伴っていて、自分自身も更新されていくかのようです。
今日はこの発見について皆様とシェアしたいなと、ちょっとおかしなことを書いてみます。

最近発見したことの一つに、しばしば皆さん体の一部を置き忘れているようだということがあります。
おかしなことを言うようですが、虚となっているエネルギーの足りない場所にはその元となっている正常な働きがその人の体の中では無く、周辺に浮遊しているのです。
もとはその人本人のものですから、つながってはいます。
もとのエネルギーのありかをさぐって行くと外に行き着くのです。
そうなると私がやることは、外にいるその正常なものに向かって繋がりを強め、中を整えたからもう戻っても大丈夫と教えることになります。
外に向かって治療している自分はいかにも変ですが、これが良い効果をもたらすのです。

もとより、その人はその人の体のみならず、最小でも周囲1メートルはその人の領域だとはエネルギー的に見ると当たり前に言えることです。(これはエネルギーレベルの落ちている人程、周辺に及ぼすエネルギー量が狭くなるようです)
普段からエネルギーの範囲では領域がオーバーしてるわけですから周辺にエネルギーの影響を受け、自分のエネルギーも周囲に影響をあたえ生活しています。
意識するしないに関わらず様々なエネルギーが交流しているわけです。

話を戻しますと、離れてしまった正常なエネルギーは避難しているとも言えます。
肉体の中にいることが耐えられないと無意識に離脱しているのです。
本人はそんなこと気づかずに生活しているわけですが、体は出し入れ自由な存在だという訳です。
自分自身がそれに気づいて生活すると、とても楽になります。
一つ一つの細胞、分子、原子、素粒子が一つの宇宙であると、新年のご挨拶に書きましたが、
そうした存在がすべてを知ってより良い状態にコントロールしてくれているのが総称して体となっているのです。
体の情報をくみ上げ、表層意識とは異なる無意識の領域を拾い出していく謙虚さが、とても大切です。
出来れば、本来のエネルギーを体から避難させないこと出さないことがその人の全体性を高め、自信を強めて困難な道を歩きやすくしてくれます。
これをいちいち治療の際にお伝えするべきか悩むのですが、もしかして治療のあとに気持ちが明るくなって勇気が出て来ていたら、取り戻せたかな、、とちらっと思って頂けると嬉しいですね。

新年あけましておめでとうございます。

皆様 2015年明けましておめでとうございます。

昨年は多くの方に支えられ無事に新年を迎えることができましたこと、ここに感謝申し上げます。

毎年毎年色々なことがありますが、今年は新しい年を迎えられる喜びが一層強い年となりました。
一人の人生に様々なことがありますが、出来事に全身全霊で向かい、勇気を持って進んでいくと一瞬一瞬の選択が新しい道を作っていくようです。
時間でいえば全ては一瞬の中に、物質でいえば一つの微粒子の中に宇宙があります。
フォルメンでいえば一つの点にエネルギーが入れば、その点が繋がって線となり、動きとなり、面を生み出します。そうして集合したエネルギーとなり、平面の上でエネルギーを放ち続けます。
人の中でも同じ様なことが起きています。
一瞬の動きに込めた思いが、集中が、繋がってその人の行動となり、エネルギーを放つ存在とし、過去と現在と未来時間軸の中で動かします。
皆さんはそれぞれ全く異なる人生を生きますが、成り立ちは同じです。
一瞬一瞬を深く生き、自分の軸を確かにして生きればそれで良いのです。
見えないところで自分という存在が全てに影響を与えています。

やすらぎでは治療の一寸一秒を生きた時間として、今年も体と心の旅を続けていきたいと思っています。
ブログももうちょっとまめに更新するように頑張ります,,,。
では皆様 本年も宜しくお願い申し上げます。

気を消耗させるもの その1

気を消耗させるもの、テーマをわけてお話していきます。
気に影響を与えるものは内的要因と外的なものにわけられます。
内的要因としては、思考感情、対人関係、動物など、いずれも本人の感情や感覚を刺激し自分自身の主体性によって影響を与えるものとして大きな影響を持ちます。
外的要因としては、水、食物、空気、電磁波、薬、添加物等。
外的なものは全て現代病といってもいいような、遠い過去には存在しなかった刺激です。
内的なことは前回の気について語ったことで少しはイメージ頂けると思いますので、これからは外的な要因で皆さんに気にして欲しいものを挙げていきます。

まずは水。なぜ水なのかといわれると水こそは波動の影響をもろに受ける存在です。川や地下水に流れる時点で環境ホルモンや土壌残留農薬、薬などの化学製品の影響を受けます。集められた貯水タンクではその建物の波動を受け、各家庭へと運ばれる水道管も老朽化によってしみ出される物質の存在を考え合わせると、現代の水道水は本来の水とはかなり異なった性質をもつようになっています。
個人的に水の力の偉大さを知るのは登山の時に味わえる山のわき水です。この新鮮で清浄な水は山登りで疲労した体を一瞬にして回復させるような素晴らしいエネルギーを持っています。持参したどんな食料よりもはるかに美味しく魂から満たされる至福の一滴なのです。
たかが水ですが、人体の60%を占める最大の構成要素です。周りの環境を写し取って存在するのが水の性質です。普段から極力水を汚さないこと、水道水に浄水器を取り付けるなどして自分の飲み水の波動を上げていきたいものです。

食物はいわずもがな。好きなものを食べれば良いはず、なのですが。。正しい味覚に従ってエネルギーのあるものを取ることが今の時代の体には最も必要と思われます。
正しい味覚とは化学調味料で味付けされたものではなく、自然本来の味で食べられる食品かどうかということ。良い原料で作られたものならばアミノ酸や何とかエキスなどを添加せず美味しく食べられる舌を私たちは持っています。添加物の多いものはそれだけ原料が粗悪なもので構成され、味に調整が必要だということです。
化学調味料の多くは脳を刺激し興奮状態にさせることでも知られています。脳に記憶されることから
「また食べたい」と中毒的に欲するようになるのが特徴です。ここで注意したいのは、胃ではなく脳が食べたがるということなのです。多動性の子どもや無気力な子どもはこういったものの影響をよく考慮
する必要があります。
エネルギーがあるものとはどういうことでしょう。野菜でいえば、種がしっかりしたもので良い土で育ったものということです。肉でいえば、ストレスの少ない状態で飼育され、抗生物質を含むホルモン剤などの摂取が考慮され、遺伝子組み換えではない良い餌で育ったもの。
今はとにかく大量生産の時代ですから、綺麗な野菜を同じサイズで消費者のニーズに合わせてあくの少ない味に品種改良したF1種がスーパーの野菜の全てを占めています。こうした種の改良は野菜本来の香りや味の強さを失わせています。農家はこれによってかなり経営が楽なったなどの利点がありますが、詳しいことは“野口勲 タネがあぶない”をご一読下さい。(やすらぎ文庫に置いてあります。)
含まれるビタミンなどミネラルなども以前の野菜よりもずっと少なくなっています。個人的には信用していませんが、栄養学では一日350グラムの野菜を摂取しなさいと言います。今の野菜で同じ量
を食べてもおそらく栄養学的には足りないことになるでしょう。
そして化学肥料で育った野菜は冷蔵庫で日が経つと溶けてしまうのを皆さんご存知でしょうか?
水になってしまうのです。野菜の姿をした化学肥料を食べている様な気になります。
有機栽培された野菜は日が経つとしおれていきますが、水分が失われるだけでミイラ化していきます。
形はそのまま残るのです。
無農薬栽培のリンゴを作った木村さんをご存知でしょうか?木村さんのリンゴは腐らないそうです。
ただ水分が抜けてしぼんでいき香りもそのまま残るそうですが、野菜も同様です。
生命の力とはこういうもののはずです。
人間の体も単なるシステムではありません。命にはエネルギーが働いています。胃が吸収するのは栄養素ではありますがエネルギーそのものなのです。エネルギーが高いものであれば量は少量でも満たされます。コンビニ弁当や菓子パンをいくら食べても満たされないのは、エネルギーレベルの低いものだからです。そうして他のものを食べて補おうとすることで過食になります。

食べ物にかんしては、いくら書いても足りることが中々ありませんね。
ひとまず、今日はここで。次回は日本ではほとんど顧みられることのない電磁波です。