自分のことでもあるが、患者さんのことでもあり。
歳をとるというのは、実に面白い。
一つ一つ、扉が開いていくように、歳と共に記憶が解禁され、精神が自由になっている気がする。
若い頃、なぜあんなにモヤがかかったような状態だったのか、ベールがめくれていくように記憶が蘇り、無意識に押し込めていた縛りが自分を解放していく。その中には葛藤もあり、悔しさもあるが、自分に対する批判や劣等感が鳴りを潜め、より自立できるようになる。
子供時代の過ごし方は、100人100様だろうが、どの人にも言えることは、子供の頃のあなたは勇敢で正義を知っていた。自分や誰かを守るためにやむなくその様に生きることになり、その結果だけが、自分について回り、自分が幼い頃いかに理不尽さや心地よさを求めて闘っていたかを忘れてしまうのだ。
シュタイナーは若い頃は物理的肉体に支配されていた体が、年とともに魂の影響する要素が多くなるため、魂の発展が老年には不可欠だと言っていた。確かに、高齢者の感情や思考が肉体に作用する影響力はあまり知られていないが、実に大きい。このことは高齢者に知られていないのでは無いだろうか。食事よりも思考や感情といったエネルギーが体を支配している為、その時々の状況は健康に大きな差が出る。翻って、幼児は快楽原則で生きると言ったのは精神科医のA・ローエンである。心地よいかよく無いか、その2択で機嫌が決まる。機嫌が良ければ健康で、成長も順調である。シュタイナー教育でも幼児期の感覚体験を非常に重視しており、幼児の受け取るものを心地よく穏やかにすることを勧められる。幼児期は皮膚感覚とともに周囲のエネルギーまでを巻き込む様な良質な環境が重視されるが、年とともにその感覚は内に取り込まれる様になり、最終的には内的世界が内側から自分の表面に影響を与えるようになるのだ。内的世界が豊かなら、その老人は幸福でいられる。魂の発展とはそのようなものだ。
さて、始まりに記した、記憶のベールが剥がれていくのはなぜか。無意識層が、そこから突き上げて来るように記憶を持ち上げてくる力。それは一体どこからくるのか。なぜ、それまで私たちは自由でいられなかったのか。雲を掴むように、闇雲にフラフラといろいろな経験をしながら、次第に気づいていく。そう思うと一人の人生は一編の物語のようだ。経験はヒントとなり、納得して記憶を受け入れる準備をする。準備が整って初めて、記憶の鍵を与えられる。誰もが責められずに済むように、誰もがそれぞれの事情があり、それをわずかでも理解できる力がついて初めて鍵を手に入れる権利を手に入れる。そうなのでは無いだろうか。人を延々と責め続けることは時間の無駄である。自分の記憶は常に整理されて保存されており、一見無駄と思える経験がそれら無意識の記憶の整理に一役買っているのでは無いだろうか。経験して理解して知る。納得して、整理箱が一つ整頓されて、その余白に出てくるのが無意識層の記憶かもしれない。だとしたら、経験は物語の秘密の鍵そのものなのだ。