子どもの時間

最近考える子どものこと。
あなたのお子さんは疲れていませんか?
今日は子どもを巡る”時間”から子どもの体と心を探ってみたいと思います。

いつも思うのは子どもの世界というのはそれだけで完成しているということです。
彼等は、個でいるとその完成されたファンタジーの中にひたり、集団でいると自然とリーダー格を決めて調和の中で今一番やりたいことを全身を使って延々と遊びます。
その自発性と自然発生的な協調性、何も無いところから生まれる発想力こそが子どもの持つ宝物であり、大人が到底適わない能力です。
最近は子どもが自由に遊べる場所が公園しかなくなっていますが、場所だけでなく時間すらも大人に奪われている子どもの多いこと。
子どものうちに学習しないととばかりに早々に塾に行く、習い事でぎっしりになって窒息しそうに疲れている、習い事が無ければゲーム機から離れられず目と頭を酷使する、、。。
疲れは思考を一方向に持って行きます。
体が硬直するので、いつも使っているようにしか体は動きませんし、頭もそのように一方向性に働きます。
遊びと習い事の何が違うのでしょう。
習い事は指導者のペースで指導者の理解の中での動きを反復させます。
ペースが全員一致もしくは指導者のペースであることは人の呼吸に自分を合わせており、ひどく消耗させます。
また、学校の体育にあるように全体性を意識したスポーツの多くは直線的なパワーであり体の使い方もそれに従って同方向にしか動かさない傾向が出てきます。
その為、動かさない方向の筋は固くなり疲労がたまりやすく怪我をしやすい。
人の動きは分子レベルで考えると円運動が必須です。
らせんや円が入ることで関節がまんべんなく動き、柔軟な動きに対応した体が出来ます。
子どもの遊びは子どものペースですから、呼吸は問題ない。
動きには鬼ごっこに見るようにつかまりそうになると後ろに退いたり、横によけたり、円に走ったり実に様々に反応します。野球などをしていても、無駄な動きをつけながら遊んでいます。
昔遊びでは特に円運動は顕著です。かごめかごめや、コマ回し、けん玉などは全身を上手く使わないと熟達しません。
一見無駄な動きを自らのリズムでスムーズに操る。それが、遊びの重要なところなのだと思います。
自分の意思決定と体の使い方が一致しているのは子どもにとって案外大事なのではないでしょうか。
それが、忙しくなっているとどうでしょう?
体を一方向にしか使えていない場合は、思考も一方向性となります。
色々な角度から柔軟に思考することが出来ず、自分と異なる他者を除外したり非難したりしたくなります。
無駄に考える時間もないので、その子がもともと持っていた興味や好奇心は後回しになります。
余裕がないと効率よく生きる為に、目の前の課題に対処する以外のことを忘れていくのです。
自分の意思のないところで様々な決定があるので、受動的になり疲れやすくなります。
常に与えられるので新しいことを生み出すアイデアなどの発想力や他者にたいする想像力が衰えます。
自我が主張する小さな大人の出来上がりです。

誰かに指導されたり、監視、操作されている世界ではこの世のものとしきれないものを子どもは沢山持っています。
子どもは一杯無駄な時間と無駄な経験を繰り返しながら、周りの人間を理解し、環境を理解し、自分を理解して行くのだと思います。
サル学の権威の河合雅雄は小さい頃に遊んだテリトリーの大きさが、その後の人生の豊かさになると言いました。
習い事や塾ははたして子どものテリトリーになり得るでしょうか?
その子の時間を、自分でリズムを見つけ色をつける、そんな当たり前の時間が一人一人に還ってくるとそれこそ大きなエネルギーとなってその子の人生や社会に還元されるのでしょう。