今日は手間ひまをかけるということについて。
てまひまかけること、女性は好きな人が多い。でも、意外とそれを無意識に排除してしまう女性もまた多い。なぜか?素朴な疑問を追求してみた。
世の中の流れが加速度的に早まっている。お笑いの世界の流行すたりをみてもわかるようにおばちゃんにはついていけない。。。と感じることがしばしば。その分、ものの質が軽くなっている感じはある。
早いものは総じて軽い、遅いもの程重い。
だから世の中、お手軽な感じが受けていて、なんでもクイックになりつつある。
手間ひまというのは時間をかけることでその一瞬を重くする。
速いものについていく軽さというのは、波動が高くて良い場合もあるがタダの塵芥の場合もある。
真に速くて軽いものに同調するには、回転する独楽のように軸がピッと立っていてグランデイングしていることが重要で、今起きている多くの事象はそんなことのない回転が上がれば溶けてなくなりそうな根っこのない浮遊物がほとんどである。
そんな速い流れにいちいち心を奪われていては、軸を持たない人には消耗の極みである。だから、しんどい人には今の流れにかき回されてさらにしんどくなるし、軸を持つ人はさらにグランデイングしてますます回転する力を大きくできる。
こんな時に軸を明確にしてグランデイングさせる手段の一つが、手間暇をかけることである。
手間ひまというのはエネルギーの錘を地上に降ろすようなイメージがある。一見無駄なことのように思えることだけども、一つ一つの行為に向き合う時間を大きくすることで、時間の質量があがる。同じ一分が違う一分になる。
集中していると、時間が随分経ったように思っても実はほんのちょっとだったりする、あの感覚。
今はなんでも如何に楽をするか、早く手軽にするかに価値をおかれがちで、本来手をかけてじっくりやるはずのことまでもが、なんだか逆転しつつある。
子育てにしてもしかり、料理にしてもしかり、味噌や醤油などの発酵食品もじっくり寝かさないで手軽にできる味噌がスーパーに並ぶ。
結果何が失われるかといえば、エネルギーである。何を食べても選んでも補われないということになる。手間を受け取れないからエネルギーが足りず、手間の掛け方がわからないからエネルギーの出し方が分からず、力が入らない出ない。お互いに手間を省くから循環しない。
一見無駄なところに手間ひまはある。こどもが作ってくれるご飯やみそ汁がなぜこんな美味しいのかというと、一生懸命作っているからに他ならない。娘に聞いてみると、出汁の鰹節が完全に沈むまでにらめっこしているらしい。お米はピカピカになるまで研ぐし、炊いている間も気を離さない。私には無理だ。。。とはいえ、無駄は大好きだ。何かする時の準備が一番楽しい。書道の墨をするとき、合気道のじっくりやる準備体操、子供達へのおやつ作り、、、一見やらなくて良さそうなことであるが、大事なことばかり。おそらく、出汁が沈むのを見ている娘には、その重大性はわかっていないだろうが、できれば何歳になっていても見ていてもらいたいものだ。
忙しい、時間がないというのは確かにそういう時もあるが、よくよく心を落ち着けてみると時間を自分が勝手に取りこぼしている事の方が多い。そう、手間ひまは時間を広げるのだから、時間を増やしたい時こそ手間ひまかけるのだ!
疲れているから、、というのは本当に休んだ方が良い時はめったになく、大抵別のことをやれば疲れが取れたりする。要は工夫すれば流れが変わるのに、いつまでも同じところにしがみついているから疲れが取れない状態になる。疲れている時こそ、手間ひまをおすすめしたい。
回転数の上がる今だからこそ、時間を自分のものに取り戻したい。流れを見極めたい。
だから、自分が手にするものには気をこめて。大事に大事に、丁寧に丁寧に、向き合う。
ずっとそうしてはいられないけど、出会った時だけはそうしたい。
てまひまは、無条件の愛なんだと思う。