今日は前々からお話しておきたいと思っていた大事な発見について書いてみます。
テーマは批判と共鳴としましたが、批判と言ってしまうのはあまりに直接的で反感を招いてしまいそうで少々躊躇します。
そもそもこれは量的世界と質的世界のお話なのです。
もう一つ言い換えると知的世界と感覚世界。量は知的、質は感覚。
なぜ量の世界は知的世界と同義とされるのでしょう。
知的であるというのは知識をどれだけ持っているかということで推し量られます。
受験勉強はその最たるものであり、学者の世界もより多くの本を読み、より多くのデータを持ち、それにもとづいて新たな学問の世界が築かれるのが現状です。
知的レベルを上げるには量を沢山持っていないと議論にも勝てないし、点数も取れない世界です。
対して感覚の世界はそれが美しいか、心地よいか、どんな感覚を受けるかはそのもの本来が持つ質に由来すします。美しいものはそれが大きいかろうと小さかろうと受ける印象は同じく美しいままです。
さらに発展してみましょう。量には比較が生じます。
どちらが多いか少ないかという評価が生じてくるわけです。
評価とは自と他を区別するものであり、対立関係にあります。
分析、判断、評価、、比較、などの量をベースとした解釈には自他の分断が生じそれが批判という感覚を生じるのです。
対して質的世界はどうでしょうか?
感覚には自らを動かす必要が生じます。
美しい、心地よい、眠い、空腹、いずれも自分が知っている感覚を思い起こして共に感じることができると思います。
自他の別なくして共に感じること、これが共鳴です。
対立にたいしては包容と言う言葉が適切でしょう。
これをもとに考えてみると、どうでしょう。
相手の為を思って言う意見や評価が批判していることにつながります。
わかりやすい例が、話を聞いてもらっている時です。
相手に自分の気持ちをわかって貰いたいだけなのに、こうしたら良いだのああしたらだの言われてカチンときたことはありませんか?
相手が対立的に話を聞くとそのような返しになります。
カチンとくるのは正常な反応なのです。
だってそれは遠回しの批判なのですから。
どうしたら良いかという応えは実際必要とされていないことがほとんどです。
どうしたらいい?と聞かれて一生懸命考えて答えたって、相手はその通りにしてくれることはあまりないでしょう。
実際、一番良い答えはその人本人が決断して行うことにつきます。この際、決断する内容はあまり関係ないのです。その人の主体的な決断が大事なのですから。
その決断を早められるのが共鳴することです。
(これは治療院でも良く聞かれるやりとりなのです。)
今の学校教育は通知表もそうですが、評価されることばかりで子どもは中々大変だと思います。
子どもの言動を微に要り細に入り取り上げて職員会議にかけたって、あまり解決にならないでしょう。
その子どものエネルギーレベルに共鳴して、初めて先生はどうしたら良いか、その子と共に発見できるものがあるのだと思います。
これは以前オイリュトミーの先生から聞いて感動したのですが、シュタイナー学校の先生は誰かある子どもについて考えたい時、その子のことをこと細かにイメージするそうです。
職員会議のようなところでも、その子の頭の先から爪の先まで具体的に生き生きとイメージします。
担任の先生は夜寝る前にもそうしてイメージしてその子と繋がります。
その子が何を言ったとか何をやったとかではないのです。
それがその子どもの力になることをシュタイナー学校の先生は知っているのです。
これはまさに包容です。
教育が常にこんな形で治療的に生きているというのは素晴らしい!
今の世界は物質中心主義で教育も医学も学問も全てが量的価値観の中で作られた世界となっています。
もっともっとという欲求によって世界が発展してきたわけですが、その為に人はお互いにとても批判的に生きるようになっていると思いますが如何でしょう?
今日は長くなったのでこの辺にしておきますが、もう少し考えてみたいお題です。