月別アーカイブ: 2017年5月

ホメオパシーとアロパシー2

ホメオパシーがアプローチしているものは何か?
前回の問いから始めてみましょう。
ホメオパシーは波動医学と言われています。
レメデイ−を作るとき、その物質のもつ成分を限りなく希釈震盪しダイナミック化します。ダイナミック化とはまさに波動を転写しその動きを震盪によって大きな働きを持つものとして展開させていくことです。

”以前にはきづかれていなかった潜在的なエネルギーを、すなわち、眠っていたかのようにそのなかに隠されていたダイナミックなエネルギーを発揮させる”(医術のオルガノン㌻337より)

そうして、取り込まれた波動が一番に影響を与えるものはなんでしょう?

”あらゆる病気において、とりわけすぐに発症する(急性の)病気においては、改善や悪化の始まりはわずかなものであり、誰でも気づけるものとはかぎらない。その始まりを知らせる数ある徴候の中で最も確実でわかりやすいのが、患者の心理状態やすべてのふるまいである。改善の始まりがどれほどささいなものであっても、それが始まれば患者は、だんだんくつろいだ状態になり、一段と気持ちが落ち着き、精神的に自由で、よりいっそう元気になる。しかし、悪化が始まると、それがどんなにささいであっても、改善の場合とは正反対の状態になる。つまり感情や精神も、すべてのふるまいや態度も、姿勢や格好も、自由が奪われてぎこちなく、よりいっそう哀れみを感じさせる状態になる。”(医術のオルガノン㌻325より)

この好転悪化の動きは鍼灸とまさに同様のものです。
人が良くなるとき、それが何によるものであれ、同じ動きを見せることがよくわかります。
そして、波動がまっさきに影響を明らかにするのは患者さんの感情面であり、体の使い方に出るとあるのは、如何に感情が波動の影響を受けているかわかることだと思います。
体の使い方というのは、波動が体の筋肉や骨格にまで一気に影響を与えた結果とも捉えることはできますが、即効性の面では感情面の解放によって心身の統合が容易になった結果といえると思います。

ホメオパシーでは病気とは私たちの生命が感覚と機能において(精神のような)ダイナミックな仕方でかく乱すること、つまり私たちの健康状態が非物質的な仕方でかく乱すること、これ以外であるということはありえない、といいます。
その自然本性もダイナミックで精神のようなものである為に、病気の原因は感覚で識別できるものではないと。
病そのものが精神的なダイナミックエネルギーであり、治療する手段もそのようなものになるのですね。
さらに付け加えておくと、慢性病の原因はソーラマヤズムとしています。
このマヤズムの考え方はホメオパシー独自のものであり、世代を超えて現れる綿々と先祖から受け継がれてきたその人が生まれながらに持つものとされています。
治療していると、もともと持って来た体質とどうしても直面することになります。
アトピーや精神病気質などはまさにそれを感じさせます。
私もまだまだマヤズムについては学びが足りないのですが、前世療法もその一部に組み込まれるかなとも思いますし、波動治療である積聚もその意識のあて方で充分に改善可能であることを思うと、治癒の可能性を多いに広げてくれる分野であると思っています。

さてさて欲張ってマヤズムにまで言及してしまいました。
ホメオパシーについては面白い本が沢山あるので、今後もおそらく取り上げる回が出て来るとは思いますが、今日はこのへんで。

ホメオパシーとアロパシー

最近、夢中になって読んでいるサミュエルハーネマンの”医術のオルガノン”からホメオパシーと鍼灸について考えることを少々。
ホメオパシーというものはレメデイーを処方するホメオパシー療法が基本ですが、一つの考え方であると思います。昔から伝わる民間療法はホメオパシー医療でした。たとえば、やけどの治療一つを取り上げてみても、その違いは明白です。今はやけどはまず冷やせと言われています。でもその為に水泡がつくられてしまい、皮膚がダメになるのです。ホメオパシー的にはやけどは温める、です。やけどをした温度より少し低い温度で少しづつ下げていきます。そうすることで皮膚機能を維持したまま水ぶくれをつくらずに治すことが可能だったのです。凍傷の場合もそうです。人は皆、無意識にわかっていたのです。いつから医学はアロパしーが主流になったのでしょう。

ホメオパシーとは同種療法ともいわれ、ヒポクラテスの唱えた「症状を引き起こすものは、それを取り去るものになり得る」という同種の法則をもとにドイツの医師ハーネマン(1843年没)が生み出した療法です。ヒポクラテスの時代(紀元前370年没)はホメオパシー医療だったということですね。それに対するものがアロパシーと言われます。逆療法ともいわれ「体におきている症状と反対のものを与えることで症状を取り去る」考え方で現代医学に象徴されるものです。
アロパシー医学は原因を物質に求めていると考えており、体を物質として捉え、物質を細分化して原因を探った結果がウイルスや細菌が病の原因であるとするまでに至りました。
対してホメオパシーは体を有機的な繋がりをもったエネルギー体として捉え、患者のバイタルフォース(生命力治癒力)をいかに調整するかで処方が決まります。
今ある幾多の医学的手法は、このホメオパシー的であるかアロパシー的であるかに分類出来るのではないでしょうか。
体をどのようにとらえて治療をするかによって、鍼灸にしても結果はまるで異なってきます。
一般的には鍼灸といえば熱い痛いと怖いもので捉えられがちですが、これはアロパシー的に捉えた結果の認識だと思います。固ければ刺し、冷たければ熱い灸をする。同じ鍼灸でも現代医学的診断に沿って鍼をすればそれは物質をいかに変化させるか、という考えに基づくわけで、足りないものを補うというスタンスはさけられません。
それに対して積聚治療はじつにホメオパシー的治療です。根源の精気にむけて治療するという根源の概念、相手の波動に共鳴して気を送る同調の調整。症状にとらわれず、その症状を起こしている背景を読み取り、根本から治療するようにたてられた治療法。
肝心なのは私たち治療者が生まれてこのかた、医療といえばアロパシー一色で、その考えに知らず知らずにつかって成長していることです。患者さんの訴えの背景をよく見る訓練を重ねても、ついつい患者さんの足りない部分に目がいきそうになるのはまぎれも無くアロパシー教育の成果だと思われます。患者さんももちろん、そのような要求をする方は多くいます。痛いところに鍼をすれば治るのではないか、冷たい足に灸をすれば良いではないか、、等々。もちろん、体の状況によってそれで良くなることもあります。その治療が体にとって共鳴する刺激だった場合です。でもそう単純な病態で無い時、ホメオパシー的観点が重要性を持ってくるのです。
アロパシー医学の必要性はもちろん認めるところではありますが、ホメオパシー医療の存在、考え方はこれからの医療の世界に必要急務ではないかと思います。
バイタルフォースの世界に目を開くことは物質ありきの世界に限界をきたしている救世主となるでしょうし、なにより多くの人の感覚の歪みを修整していくことでしょう。
それでは、ホメオパシーが治癒させているものとは何か?次回探っていくことにします。

ワンネス

治療はまさしくワンネスだなと思うこの頃。
あなたに起きている全てにアクセスして肯定する権限を貰っている。
そう、否定でもジャッジでもない、必要なのは肯定することのみ。
治療家は体の援軍みたいなもので、本来もっている力を後押しして力づけ、存在に気づいてもらうこと。
それが仕事。
それはけっして力や量の世界ではなくて、ただただ波動と意識の世界。
見えないエネルギーの糸を編んでいる様なやりとり。

最近、やっとエネルギー体への治療がこういうものだとわかるようになった。
そうなると毎回の治療が感動で、面白くてワクワクするものになる。
これまで、こういう治療が出来ずに通り過ぎて行った全ての患者さん、昔からずっと通い続けてくださっている患者さん、すべてに心から感謝。
シンキュウの世界は現実世界でやっていくのに困難が多いけど、こんなに楽しいのだったらもっと広めていいよね?と思えて来た。

バラのエネルギー

柔らかく、優しいサーモンピンクのような色合いで、ゆったり波打つ穏やかな波動。
まさにこんなバラのようなエネルギーを持つ子供達がいます。
こんな波動だったら相手のどこまでも染み通って入っていく、全てのものの気を許してしまうようなエネルギーなのです。。

子どもの時間

最近考える子どものこと。
あなたのお子さんは疲れていませんか?
今日は子どもを巡る”時間”から子どもの体と心を探ってみたいと思います。

いつも思うのは子どもの世界というのはそれだけで完成しているということです。
彼等は、個でいるとその完成されたファンタジーの中にひたり、集団でいると自然とリーダー格を決めて調和の中で今一番やりたいことを全身を使って延々と遊びます。
その自発性と自然発生的な協調性、何も無いところから生まれる発想力こそが子どもの持つ宝物であり、大人が到底適わない能力です。
最近は子どもが自由に遊べる場所が公園しかなくなっていますが、場所だけでなく時間すらも大人に奪われている子どもの多いこと。
子どものうちに学習しないととばかりに早々に塾に行く、習い事でぎっしりになって窒息しそうに疲れている、習い事が無ければゲーム機から離れられず目と頭を酷使する、、。。
疲れは思考を一方向に持って行きます。
体が硬直するので、いつも使っているようにしか体は動きませんし、頭もそのように一方向性に働きます。
遊びと習い事の何が違うのでしょう。
習い事は指導者のペースで指導者の理解の中での動きを反復させます。
ペースが全員一致もしくは指導者のペースであることは人の呼吸に自分を合わせており、ひどく消耗させます。
また、学校の体育にあるように全体性を意識したスポーツの多くは直線的なパワーであり体の使い方もそれに従って同方向にしか動かさない傾向が出てきます。
その為、動かさない方向の筋は固くなり疲労がたまりやすく怪我をしやすい。
人の動きは分子レベルで考えると円運動が必須です。
らせんや円が入ることで関節がまんべんなく動き、柔軟な動きに対応した体が出来ます。
子どもの遊びは子どものペースですから、呼吸は問題ない。
動きには鬼ごっこに見るようにつかまりそうになると後ろに退いたり、横によけたり、円に走ったり実に様々に反応します。野球などをしていても、無駄な動きをつけながら遊んでいます。
昔遊びでは特に円運動は顕著です。かごめかごめや、コマ回し、けん玉などは全身を上手く使わないと熟達しません。
一見無駄な動きを自らのリズムでスムーズに操る。それが、遊びの重要なところなのだと思います。
自分の意思決定と体の使い方が一致しているのは子どもにとって案外大事なのではないでしょうか。
それが、忙しくなっているとどうでしょう?
体を一方向にしか使えていない場合は、思考も一方向性となります。
色々な角度から柔軟に思考することが出来ず、自分と異なる他者を除外したり非難したりしたくなります。
無駄に考える時間もないので、その子がもともと持っていた興味や好奇心は後回しになります。
余裕がないと効率よく生きる為に、目の前の課題に対処する以外のことを忘れていくのです。
自分の意思のないところで様々な決定があるので、受動的になり疲れやすくなります。
常に与えられるので新しいことを生み出すアイデアなどの発想力や他者にたいする想像力が衰えます。
自我が主張する小さな大人の出来上がりです。

誰かに指導されたり、監視、操作されている世界ではこの世のものとしきれないものを子どもは沢山持っています。
子どもは一杯無駄な時間と無駄な経験を繰り返しながら、周りの人間を理解し、環境を理解し、自分を理解して行くのだと思います。
サル学の権威の河合雅雄は小さい頃に遊んだテリトリーの大きさが、その後の人生の豊かさになると言いました。
習い事や塾ははたして子どものテリトリーになり得るでしょうか?
その子の時間を、自分でリズムを見つけ色をつける、そんな当たり前の時間が一人一人に還ってくるとそれこそ大きなエネルギーとなってその子の人生や社会に還元されるのでしょう。