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意志について

意志とは何か。

意志とは、やらずにはいられない欲求のような力かと思う。その欲求は自分の魂の高みを志向しており、本来あるべき場所へと自分を連れて行ってくれる動力となるものではないだろうか。

だから、意志に反する時、人は病になる。意志の訴えが強ければ強い程、症状もまた強いのではないだろうか?

だから意志とは方向性。意志が存在することが歩む力となる。思考や感情を常に現実世界の動力となるように移行させる力である。

意志はどのように養われるのだろう。子どものあの意志の強さは一体どこからくるのだろう。子どもは知っているのだ。自分が何を欲しているのかを。。欲求と意志の間に外界の刺激や大人の思考が入り込むように成長してくると少し複雑になる。小さい頃に自分の世界を大人によって蹂躙された人は悲劇である。子どもは習い事や勉強などのこの世に従う為の術を教育の名の下に教えこまれ、自分自身から発する欲求を見失っていないだろうか?

現代程意志の欠落した時代はかつてなかっただろうと思う。

人はどこへ進むべきか見えていない大人が多く、情報は過多になるばかりであるが、その情報が行動に結びつくことは殆どないだろう。
行動は情報に基づいて起こるものではなく、本人の内から湧く欲求によるものであるからだ。
情報を得れば得る程、自分の欲求が見えてこないものである。
情報は知識の一つであろうが、それは以前のブログにも書いた量的価値(批判)であり、感性を伴う質的価値(共鳴)ではない。
行動が起きるのは感性自らが震える時=そう共鳴する時なのだ。

さて、行動の動力となる意志の力はいかにして養うことが可能だろうか?
シュタイナーは意志を鍛えるものとしてオイリュトミーやフォルメンを挙げている。これらはいずれも方向性をもって歩みつつ周囲との調和を=共鳴を作り上げる。
また合気道を引き合いに出すが、合気道では技をかける時には明確な意志が必要とされる。
相手をどの方向に導いていくか自分の中で把握していないと受けを取る相手は混乱しとりづらくなる。
”自分が何をしたいか”が常に問われる。
先生の技には先生の手の先から光のラインが出てくる様な明確な導きがある。
この強力で澄み切ったラインが意志であろう。このラインは磁石のように人を引きつける力を持っている。

これらはラインをイメージすること、本来のライン(おそらく宇宙エネルギーの調和した流れ)に自分を乗せることが共通している。これを思うと、意志とは自分の立ち位置、軸をもとに方向性を明確にしていることが始まりのようだ。

”自分は何をしたいのか”方向性を知るにはどうすればよいのだろう。
まず、静かになることである。
自分の内部に他者をやすやすと取り込まない。他者による評価や、噂に気を取られない。ただ、今は雑音が多くて自分の本質の声を聞きにくくなっているから、そういう人はパソコンや携帯や自己啓発本やらを横に置いてボーっとしなければなるまい。

何もしない時間こそ何かを感じ考えている自分を思い出す。

自分に還ったら、今度は開く番。好きな誰かと会い、交流する。外に出て歩く。歩行は一番基本的な意志の鍛え方である。足を使うことでグラウデイングし、リズムを刻み、脳の深い原始を揺さぶる。歩いて自分の歩いて来たラインを感じることである。何をしても、ラインは存在している。絵を描いても、歌を歌っても、踊っていても、家族と会話しても。自分が流れのある動きの中で生きていることを知る。

意志は常に志向し内なる自分を外へと押し出す。押し出された自分はラインを作りエネルギーの流れを外界の中へ作り出す。こうして全ての存在が世界に宇宙に影響し合う。