月別アーカイブ: 2015年1月

批判と共鳴

今日は前々からお話しておきたいと思っていた大事な発見について書いてみます。
テーマは批判と共鳴としましたが、批判と言ってしまうのはあまりに直接的で反感を招いてしまいそうで少々躊躇します。
そもそもこれは量的世界と質的世界のお話なのです。
もう一つ言い換えると知的世界と感覚世界。量は知的、質は感覚。
なぜ量の世界は知的世界と同義とされるのでしょう。
知的であるというのは知識をどれだけ持っているかということで推し量られます。
受験勉強はその最たるものであり、学者の世界もより多くの本を読み、より多くのデータを持ち、それにもとづいて新たな学問の世界が築かれるのが現状です。
知的レベルを上げるには量を沢山持っていないと議論にも勝てないし、点数も取れない世界です。
対して感覚の世界はそれが美しいか、心地よいか、どんな感覚を受けるかはそのもの本来が持つ質に由来すします。美しいものはそれが大きいかろうと小さかろうと受ける印象は同じく美しいままです。

さらに発展してみましょう。量には比較が生じます。
どちらが多いか少ないかという評価が生じてくるわけです。
評価とは自と他を区別するものであり、対立関係にあります。
分析、判断、評価、、比較、などの量をベースとした解釈には自他の分断が生じそれが批判という感覚を生じるのです。

対して質的世界はどうでしょうか?
感覚には自らを動かす必要が生じます。
美しい、心地よい、眠い、空腹、いずれも自分が知っている感覚を思い起こして共に感じることができると思います。
自他の別なくして共に感じること、これが共鳴です。
対立にたいしては包容と言う言葉が適切でしょう。

これをもとに考えてみると、どうでしょう。
相手の為を思って言う意見や評価が批判していることにつながります。
わかりやすい例が、話を聞いてもらっている時です。
相手に自分の気持ちをわかって貰いたいだけなのに、こうしたら良いだのああしたらだの言われてカチンときたことはありませんか?
相手が対立的に話を聞くとそのような返しになります。
カチンとくるのは正常な反応なのです。
だってそれは遠回しの批判なのですから。
どうしたら良いかという応えは実際必要とされていないことがほとんどです。
どうしたらいい?と聞かれて一生懸命考えて答えたって、相手はその通りにしてくれることはあまりないでしょう。
実際、一番良い答えはその人本人が決断して行うことにつきます。この際、決断する内容はあまり関係ないのです。その人の主体的な決断が大事なのですから。
その決断を早められるのが共鳴することです。
(これは治療院でも良く聞かれるやりとりなのです。)

今の学校教育は通知表もそうですが、評価されることばかりで子どもは中々大変だと思います。
子どもの言動を微に要り細に入り取り上げて職員会議にかけたって、あまり解決にならないでしょう。
その子どものエネルギーレベルに共鳴して、初めて先生はどうしたら良いか、その子と共に発見できるものがあるのだと思います。
これは以前オイリュトミーの先生から聞いて感動したのですが、シュタイナー学校の先生は誰かある子どもについて考えたい時、その子のことをこと細かにイメージするそうです。
職員会議のようなところでも、その子の頭の先から爪の先まで具体的に生き生きとイメージします。
担任の先生は夜寝る前にもそうしてイメージしてその子と繋がります。
その子が何を言ったとか何をやったとかではないのです。
それがその子どもの力になることをシュタイナー学校の先生は知っているのです。
これはまさに包容です。
教育が常にこんな形で治療的に生きているというのは素晴らしい!

今の世界は物質中心主義で教育も医学も学問も全てが量的価値観の中で作られた世界となっています。
もっともっとという欲求によって世界が発展してきたわけですが、その為に人はお互いにとても批判的に生きるようになっていると思いますが如何でしょう?
今日は長くなったのでこの辺にしておきますが、もう少し考えてみたいお題です。

外とのつながり

新年の治療が始まりました。治療を始めるとホッとします。治療にはいつも新しい発見が伴っていて、自分自身も更新されていくかのようです。
今日はこの発見について皆様とシェアしたいなと、ちょっとおかしなことを書いてみます。

最近発見したことの一つに、しばしば皆さん体の一部を置き忘れているようだということがあります。
おかしなことを言うようですが、虚となっているエネルギーの足りない場所にはその元となっている正常な働きがその人の体の中では無く、周辺に浮遊しているのです。
もとはその人本人のものですから、つながってはいます。
もとのエネルギーのありかをさぐって行くと外に行き着くのです。
そうなると私がやることは、外にいるその正常なものに向かって繋がりを強め、中を整えたからもう戻っても大丈夫と教えることになります。
外に向かって治療している自分はいかにも変ですが、これが良い効果をもたらすのです。

もとより、その人はその人の体のみならず、最小でも周囲1メートルはその人の領域だとはエネルギー的に見ると当たり前に言えることです。(これはエネルギーレベルの落ちている人程、周辺に及ぼすエネルギー量が狭くなるようです)
普段からエネルギーの範囲では領域がオーバーしてるわけですから周辺にエネルギーの影響を受け、自分のエネルギーも周囲に影響をあたえ生活しています。
意識するしないに関わらず様々なエネルギーが交流しているわけです。

話を戻しますと、離れてしまった正常なエネルギーは避難しているとも言えます。
肉体の中にいることが耐えられないと無意識に離脱しているのです。
本人はそんなこと気づかずに生活しているわけですが、体は出し入れ自由な存在だという訳です。
自分自身がそれに気づいて生活すると、とても楽になります。
一つ一つの細胞、分子、原子、素粒子が一つの宇宙であると、新年のご挨拶に書きましたが、
そうした存在がすべてを知ってより良い状態にコントロールしてくれているのが総称して体となっているのです。
体の情報をくみ上げ、表層意識とは異なる無意識の領域を拾い出していく謙虚さが、とても大切です。
出来れば、本来のエネルギーを体から避難させないこと出さないことがその人の全体性を高め、自信を強めて困難な道を歩きやすくしてくれます。
これをいちいち治療の際にお伝えするべきか悩むのですが、もしかして治療のあとに気持ちが明るくなって勇気が出て来ていたら、取り戻せたかな、、とちらっと思って頂けると嬉しいですね。

新年あけましておめでとうございます。

皆様 2015年明けましておめでとうございます。

昨年は多くの方に支えられ無事に新年を迎えることができましたこと、ここに感謝申し上げます。

毎年毎年色々なことがありますが、今年は新しい年を迎えられる喜びが一層強い年となりました。
一人の人生に様々なことがありますが、出来事に全身全霊で向かい、勇気を持って進んでいくと一瞬一瞬の選択が新しい道を作っていくようです。
時間でいえば全ては一瞬の中に、物質でいえば一つの微粒子の中に宇宙があります。
フォルメンでいえば一つの点にエネルギーが入れば、その点が繋がって線となり、動きとなり、面を生み出します。そうして集合したエネルギーとなり、平面の上でエネルギーを放ち続けます。
人の中でも同じ様なことが起きています。
一瞬の動きに込めた思いが、集中が、繋がってその人の行動となり、エネルギーを放つ存在とし、過去と現在と未来時間軸の中で動かします。
皆さんはそれぞれ全く異なる人生を生きますが、成り立ちは同じです。
一瞬一瞬を深く生き、自分の軸を確かにして生きればそれで良いのです。
見えないところで自分という存在が全てに影響を与えています。

やすらぎでは治療の一寸一秒を生きた時間として、今年も体と心の旅を続けていきたいと思っています。
ブログももうちょっとまめに更新するように頑張ります,,,。
では皆様 本年も宜しくお願い申し上げます。