だいぶ間が空いてしまいました。あれも書きたいこれもと思っているとまとまりがつかず、下書きに放置されて早ウン週間。楽しみにされていた方すみません。
鍼灸院を開設することを決めたのでまずは場所決め。診療所付属の鍼灸院ということで始めは診療所の一隅でベッドを置いて鍼を打つというイメージがあったのですが、届け出には待合室のスペース、診療室のスペース、採光や換気、消毒設備などがチェックされます。保健所が確認しに来るということで、まずは余っているビルの部屋の一室を借りて準備をすることになりました。
当時はビルの2階の1室を借りてはじまった診療所でしたが、患者さんが増えると共に2室かり3室かり、最終的には2階のフロア全てを借りている状態になっていました。(今は1階と2階の全フロアを借りています)
2階の一室というのは廊下を挟んで分厚い鉄の扉がある別戸のようなものでしたので、完全な個室でした。先生方は女の子がこんな場所で一人で鍼灸をするのに不安を抱かれたようです。
開業してからも何度か「何かあったら心配だ。」とお気持ちを話されることがあったのに、私は当時全く耳に入らず、ここで鍼灸をしたい。。。という一念のもとに動いていた気がします。
今、人の子の親となって思うと、なんと無茶をしたものか。度胸試しのようにやっていた節もありますが、当時はやっぱり鍼が自由に打てる嬉しさが勝っていたようです。
(そして保健所はいつになっても確認に来ませんでした。それは永遠の謎です。ちなみに他の2ヶ所で私は開設してますが、そこにはどちらも確認に来ています。)
患者さんは生活保護による医療保護で診療所のドクターから同意書をもらってくる人が主体でした。でも、経歴はまさに様々で、日雇い労働により体を壊した人、刑務所を出てからホームレスになり生保を貰っている人、全身入れ墨で過去の悪行を自慢げに大声で話す人、薬物中毒、アルコール中毒、精神病質で社会に適応出来ない人、ただただ人の良い真面目な人、などなど。書き上げれば切りがないほど、一人一人がくせ者ででもどこか人間臭い欠点と愛らしさがあって見放せない魅力を持った面々なのです。
さらには、そんな人を支える役所のCWや、街の中のスナックのママも患者さんでした。
当時の治療法は、今でこそ積聚治療という核になる見方を用いていますが、整骨院で覚えた筋骨格系に重点を置いた局所的鍼灸だけ。筋骨隆々の相手に気持ちよく一杯鍼を打っている毎日でした。が、もちろん場所が場所だけに、足を拭かないと治療が始められない、脱脂綿を使うと真っ黒になって何枚も必要だとか、往診に行った先では汚してしまった布団の洗濯から始まったり。。。そんなことは日常茶飯事。
そして、治療には生活指導もつきものですが、これが殆ど不可能なのです。冷房で冷やすのは良くない、とか胃の調子を上げる為に自炊しなさいとか、体の治癒力を上げるには不可欠なのですが、、。生活環境、経済状況、将来的希望で限界地点にいる患者さんに世間知らずの娘が要求するのでは響かないのです。相手に理解を求めるのは、あくまでも相手のハートに届く言葉を持っていることが必要だと、当時切に感じたものでした。
今こうして振り返ると、寿では治療技術を学ぶ先生はいませんでしたが、様々な問題を抱えた患者さんを取り巻く医療、社会システムの中で鍼灸治療をする意味と、人生の破綻をきたしている患者さんの心と繋がってどう立て直すかという治療家の本質に常に向き合わされる場所だったのです。
こんな未熟者に鍼灸院を開かせて下さった院長先生ご夫妻を始め、スタッフの協力があり、強面ながらも可愛い患者さん達に囲まれてなんと恵まれていたことでしょう。
一方で沢山失敗もしています。私が若くて苦労知らずで無神経だったお陰で、患者さんの心の痛みがわからず治療の翌日に自死した患者さんもいました。それ以外でも当時の多くの患者さんは年齢に関わらずお亡くなりになった方も多く、突然死や孤独死は場所柄とても多いのです。この人達とまた今度元気に会えるか分からない、そんな不安感、緊張感がいつでもある場所でした。
その他、患者さんの健康意識を高める為に鍼灸院で通信を出そうとしてあえなく2号でストップしたままにしました。これを寿のドヤ中に張ろうと意気込んで、ドヤの帳場さんに許可を求めて街中を走り回ったのも懐かしく、さらにそれを手伝ってくれたスタッフの優しさも忘れられません。
この通信、ひそかにずっと復活させたいと思い続けているのですが、、。
やすらぎ治療室とことぶき共同鍼灸院の共同復刊なら出来るのでは、、、とか。
はりねずみ通信と言います。これを見た人は覚えていてくださいね。
さて今回は長くなってしまいました。いよいよ次回はシリーズ最後で”今の鍼灸院”でいきますよ。